2025年9月28日日曜日

武骨に文字を並べるところからスライドをつくる

 以前の僕だったら、スライドの背景にどんな色を置くべきか、ロゴをどの角に収めるのか、フォントをゴシックにするか明朝体にするか、そんな細かいことばかり気にしていただろう。見栄えを整えることに時間を使って、肝心の中身はどこか置き去りにされてしまう。

けれど今は違う。結局のところ大事なのは中身だ、という結論にたどり着いた。ロゴがどうだとか、背景がどうだとか、観客の記憶にはほとんど残らない。残るのは数字やグラフと、それをどう語ったかだけだ。

だから僕は、白い背景に黒い文字を、ただ武骨に並べていくことにした。余計な飾りはない。そこにあるのは事実と解釈、それだけだ。まるでタイプライターで打った原稿用紙を一枚ずつスクリーンに投影していくようなものだ。

シンプルさにはある種の静けさがある。そして静けさは、聞き手をかえって強く引き寄せることができるんじゃないか。少なくとも今は僕はそう思っている。

2025年9月17日水曜日

机の上の郵便物にまぎれた1通の封筒

 診察が終わったあと、机の上に置かれた郵便物をひとつずつ整理していた。保険者からの案内や、製薬会社の資料や、雑多な封書。その中に、少しだけ雰囲気のちがう一通がまぎれていた。

開けてみると、医師を対象にした、ある意識調査への協力依頼だった。差出人の大学名には聞き覚えがなく、身に覚えもない。それでも僕がかつて通った大学院からほど遠くない。どことなくその大学名を目にすると、自分の院生時代の空気がふとよみがえる。研究棟の廊下を歩く自分や、深夜にレポートを仕上げていた友人の姿が浮かんで、少し懐かしくなる。

よく知らない差出人からの封筒は、ともすると放っておきがちだ。それでも、この一通を無視してしまうのは惜しい気がした。誰かが真剣にテーマを選び、調査票を印刷し、切手を貼り、投函した。その手間を思えば、軽く扱う気にはならない。

案内にはQRコードが添えられていた。スマホをかざすとGoogleフォームが立ち上がる。手元で画面をスクロールしながら、いくつかの質問に答えていく。ほんの数分の作業だが、画面の向こうで誰かがデータを集め、統計にかけ、レポートにまとめるのだろう。

送信ボタンを押すと、画面が「ご協力ありがとうございました」と表示される。その短い言葉に、妙に安堵した。僕1人の回答なんて、大きな成果に直結するものではないかもしれない。でも、見知らぬ研究者の営みに少しだけ触れた気がした。

机の上の郵便物はまた雑然と積み上がっていくけれど、その中の一通が、ちいさな懐かしさと静かな余韻を残してくれた。

2025年9月15日月曜日

前もって提示していても、診療時間をかえるのは気が重い

 「土曜日の第一セッションには入らないだろう」――そう思っていた自分の考えが甘かったと知ったのは、日程が確定したときだった。

よりによって朝イチ。避けられると思っていた時間に、あっさりと予定を置かれてしまった。

結局、金曜の夜に動くしかない。16時に診療を終える。

今のところ、患者さんの予定を大きく変える必要はない。

けれど、金曜の夜に受診を考えていた人には前もって伝えておかねばならない。僕の都合で診療時間を削るのは、どう言い繕っても気が重い。

新幹線で羽田へ向かう道すがら、窓の外に流れる街灯がやけに冷たく見える。

「甘い考えでしたね」

それでも、夜の長崎行きに乗るしかない。

2025年9月7日日曜日

専門医更新、深夜のひとりカンファレンス

専門医の更新という作業は、思った以上に時間がかかる。
20人の症例、ひとつひとつまとめていく。
パソコンの画面には文字列が積み重なり、僕はただそれを追いかける。

カルテを読み返していると、あのときの選択は本当に正しかったのか、と考える瞬間がある。薬の選択や経過。ふと立ち止まって調べものもしたりする。

単なる事務作業のはずが、気がつけば内省の時間だ。

患者さんの経過をまとめるということは、自分の診療の経過を振り返ることでもある。あのとき迷ったこと、うまくいったこと、思いがけない転機になったこと。電子カルテの中には、患者さんの人生の断片と、僕自身の判断の足跡が同居している。

夜は静かに深まっていく。外の暗さと、パソコンの白い光のコントラストがはっきりしてくる。時計を見ると驚くほど時間がたっているが、不思議と疲労感は少ない。

専門医の更新は制度的なものにすぎないかもしれない。でも、こうして過去を振り返り、調べ、書き残す過程は、思った以上に示唆に富んでいる。未来に進むために、静かに足元を照らすような作業だ。

夜がふけていく。
けれど、その深さは不思議と心地いい。
あと少しでまとまる。

2025年9月3日水曜日

採択通知が鳴らす合図

 第40回日本臨床リウマチ学会の総会に、リピッドパラドックス研究の演題が採択された。

それを知ったとき、僕はクリニックの目の前のスタバでデカフェのアイスコーヒーを飲んでいた。氷の音がカランと鳴った瞬間にスマホが震えて、メールを開いて、「採択」の二文字を見た。

「やったな」と思った。

でもその次に思ったのは「これでまた忙しくなるな」だった。正直に言えば、アイスコーヒーの氷の方がのんびりしていた。

採択は、ゴールではなくスタートだ。つまり、いきなり新しい宿題が机の上にドサッと置かれるようなものだ。スライドを作り、声にして練習し、何度も直していく。11月までの数ヶ月は、きっとあっという間に過ぎてしまう。いや、たぶん気がついたら、靴下を片方だけ履いたまま発表当日を迎えているかもしれない。そんなことにならないように、今から準備を始めなければならない。

研究は、たとえるなら薄暗いトンネルを歩くようなものだ。どこまで続いているのか分からない。だけど、トンネルの壁に手をあてると、ひんやりとした確かさが返ってくる。ひとつひとつの作業が、その「確かさ」だ。積み重ねが道になり、気づけば出口の光に近づいている。

こうした準備は、忙しい日常に紛れ込みながらも、不思議と僕のペースメーカーになる。診療と家族と研究、そのあいだを行き来する日々の中で、次にやるべきことがいつも前に置かれている。それは小さな荷物のように重く、しかし背中をまっすぐにしてくれる。

ライフワークという言葉は、どこか大げさに聞こえる。でも、毎日食卓に花を一輪飾るように、ささやかに続けていく行為こそが、実はライフワークなのかもしれない。リピッドパラドックスの研究も、そうして僕の日々に根を下ろしつつある。

うれしさは、一瞬で消えてしまう花火のようなものだ。でもその残光を胸にしまい込みながら、僕はまた、静かに歩き出す。11月までの道のりを、ひとつの旅のように。


先頭打者ホームランというわけにはいかなかったけれども、長崎の光の中で未来の背中を追い始めた

朝いちばんの発表が終わった瞬間、胸の奥の霧がふっと晴れた。 半年分の緊張が、出島メッセの裏口にそっと置き忘れてきた荷物みたいに、気づけばそこにない。 同じ会場では、僕より二回りほど年上の先生たちが、外来と生活のすきまから丁寧に紡いだ研究をまっすぐ発表していた。 白い光の中で揺るが...