2025年11月8日土曜日

パンデミックがまだ教科書の言葉だった16年前。その言葉が現実になった6年前。そしてまだ見ぬ4年後の僕へ。

 医師会の新興感染症対策研修会に参加した。

司会の先生が最後に言った言葉が耳に残っている。


「パンデミックは2009年、2019年と10年ごとに起きています。

もしかしたら2029年にも、何かが来るかもしれません。」


この「10年ごとに」という言葉には、ある種の時間意識が潜んでいる。

僕たちはしばしば、歴史を“出来事の列”としてではなく、“リズム”として記憶している。

つまり、10年に一度やってくる不意打ちは、偶然ではなく、ある「周期」として受け止められてしまう。


2009年の新型インフルエンザ。2019年の新型コロナウイルス。

それぞれの年に、社会は一度立ち止まり、

「普段当たり前だと思っていたこと」を疑い、

「人と距離を取る」という、最も社会的なことの反対を経験した。


次に2029年がやってくる。

そのとき、僕たちはまた「備えよう」と言うだろう。

けれども本当に必要なのは、「備え」という語の中身を入れ替えることではないか。

備えとはマニュアルや物資のことではなく、

自分が「想定外に動揺しない」ための思考の柔軟さ。


パンデミックはウイルスの問題であると同時に、社会の鏡でもある。

10年ごとの災厄のたびに、

僕たちはその鏡にどんな顔を映すのか。

そう考えると、「備える」という言葉の重さが、少し違って聞こえてくる。

先頭打者ホームランというわけにはいかなかったけれども、長崎の光の中で未来の背中を追い始めた

朝いちばんの発表が終わった瞬間、胸の奥の霧がふっと晴れた。 半年分の緊張が、出島メッセの裏口にそっと置き忘れてきた荷物みたいに、気づけばそこにない。 同じ会場では、僕より二回りほど年上の先生たちが、外来と生活のすきまから丁寧に紡いだ研究をまっすぐ発表していた。 白い光の中で揺るが...