医師会の新興感染症対策研修会に参加した。
司会の先生が最後に言った言葉が耳に残っている。
「パンデミックは2009年、2019年と10年ごとに起きています。
もしかしたら2029年にも、何かが来るかもしれません。」
この「10年ごとに」という言葉には、ある種の時間意識が潜んでいる。
僕たちはしばしば、歴史を“出来事の列”としてではなく、“リズム”として記憶している。
つまり、10年に一度やってくる不意打ちは、偶然ではなく、ある「周期」として受け止められてしまう。
2009年の新型インフルエンザ。2019年の新型コロナウイルス。
それぞれの年に、社会は一度立ち止まり、
「普段当たり前だと思っていたこと」を疑い、
「人と距離を取る」という、最も社会的なことの反対を経験した。
次に2029年がやってくる。
そのとき、僕たちはまた「備えよう」と言うだろう。
けれども本当に必要なのは、「備え」という語の中身を入れ替えることではないか。
備えとはマニュアルや物資のことではなく、
自分が「想定外に動揺しない」ための思考の柔軟さ。
パンデミックはウイルスの問題であると同時に、社会の鏡でもある。
10年ごとの災厄のたびに、
僕たちはその鏡にどんな顔を映すのか。
そう考えると、「備える」という言葉の重さが、少し違って聞こえてくる。